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2008年 11月 11日

第二次世界大戦の記憶

 ここバギオと北ルソンは、第二次世界大戦の激戦地と日本軍の降伏の地として知られています。フィリピンで亡くなった日本兵は51万8千人に及びます。(すごい数ですが、この戦争で亡くなったフィリピン人は110万人といわれ、日本人戦死者の2倍以上です。)
 そういう土地柄ですから、終戦後60年以上たった今も、フィリピンの方の中には心の奥底に大戦でのいろいろな思いを秘めていらっしゃる方もいますし、フィリピン戦を戦った元日本兵、この地で亡くなった日本兵の遺族など、今も多くの方がコーディリエラ地方を訪ねていらっしゃいます。
 私が最初に立教大学のチャペルが主催するスタディツアーで北ルソンのマウンテン州を訪ねた1984年には、山の村でずいぶんたくさんの戦争の話を聞き、自分の無知さ加減にショックを受けました。バギオに移り住み、観光地としてはほとんど知られていないこの地を訪れる日本人のほとんどが、大戦で亡くなった兵士たちの慰霊の方たちという事実にも驚きました。
 遅ればせながら、ベンゲット道路建設のために移民した日本人に始まった北ルソンと日本の100年以上に及ぶ歴史、大戦での悲惨な出来事などを、本や人々の話から学び、今現在この地に居を構えている数少ない日本人の一人として、機会があれば、戦争の傷を癒し、日比の新たな関係を築くためのお手伝いをさせていただいてきました。

 
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10月末から11月の頭にかけて、二人の大戦関係のお客さんがありました。
 その一人が、「Bridge for Peace」というNGOを主宰する神直子さん。青山学院大学時代にスタディツアーでフィリピンを訪れ、生々しい大戦での体験をフィリピン人のおばあさんから聞き、たいへんショックを受けたそう。日本の若い人たちに戦争の本当の姿を知ってほしいという思いから、日比両方の戦争体験者にインタビューをし、その映像を日本の大学やフィリピンのさまざまな場所で紹介するという活動をしています。

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 まだ、30歳の神さん。どんどん仲間たちの環を広げながら、仕事の合間を見て日本全国&フィリピンを飛び回っている行動力あふれる美女!です。しかも子供たちとも気さくに遊んでくれるやさしいお姉さん!

 今回、バギオ訪問は初めてということで、この地でしか会えない日系人の方たちに戦争体験を聞いてみたらどうかと提案し、アボン(Philippin-Japanese Foundation of Northern Luzon=北ルソン比日財団)のご協力を得て、インタビューを行いました。
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 集まってくださったのは、こんな白髪のおばあさま方。戦時中はまだ幼かった方も多く、子供時代の戦争体験のお話を多くしていただきました。

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 次に、今は日本の名誉総領事に任命されているカルロス寺岡さんを、バギオのご自宅に訪問。戦前、日本人がバギオの経済の中心を担っていた時代の豊かな生活、いっぺんして日本軍がバギオに空襲を開始した戦火のバギオでの体験、戦況が日本に不利になってからの陸軍と共にした山岳部への逃避行……そして、戦後、日本に送還され、後にフィリピンに戻って今の地位と財を築くまでのお話は、波乱に満ちた長い長い苦労の連続の体験で、とても数時間でお聞きできる内容ではありませんが、寺岡さんはとてもわかりやすく、淡々とお話してくださいました。
 山への逃避行の途中で目の前で母親と兄弟を亡くし、年上の二人の兄はそれぞれ日本側とフィリピン側に殺されたという寺岡さんの悲惨な戦争体験とその後の人生は、フィリピンと日本という二つの国の狭間にあったすべての日系人の方たちの苦悩を代表している声だと思いました。

 その後、「足を悪くしてアボンに出向けないのですが、ぜひ来てください」といっているという長岡さんという日系人の方を訪ねて、ラ・トリニダードに向かいました。戦争体験を伺いたいという意図は伝わっていたはずなのに、神さんが
「戦争のお話しをしていただけますか?」
 と切り出したとたんに、涙ぐまれ
「戦争の話でしたら、ごめんなさい。やはり話せません。お父さんお母さんも兄弟もみんな死んでしまいましたから。私だけ生き残りました」
 と、とてもきれいな日本語であやまられ、声を詰まらせておられました。
 私たち日本人の来訪にはそれまでインタビューしたどなたよりも喜びを表してくださったのに、戦争の話は思い出すだけでも涙が止まらない……言葉にはならない悲しみを痛いほど感じ、「また、絶対来てくださいね」という言葉を背に長岡さんのお宅をあとにしました
 
 神さんの感想はBFPのブログで読んでくださいね。
 
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 翌日は、日系人のおばあさんたちの話に何度も出てきたキャンプ・ジョン・ヘイに、子供たちも連れて出かけました。真珠湾の攻撃からまもなくして、日本軍がキャンプ・ジョン・ヘイを攻撃してフィリピン戦が幕を明けました。そして、1945年、イフガオ州のキアガンで投降した山下奉文(ともゆき)陸軍大将が降伏文書に署名したのもキャンプ・ジョン・ヘイです。いまはアメリカ大使公邸となっている建物が会場だったそうです。
 つまり、フィリピン戦はキャンプ・ジョン・ヘイで始まり、キャンプ・ジョン・ヘイで終わったわけです。今は、すっかりマニラからのお金持ちたちのリゾート地として姿を替えていますが……。
 私たちはそんな歴史に思いを馳せながら、松林の中で思いっきり深呼吸をしました。
 
 神さんたちはバギオ市政100周年記念の平和イベントにも参加して戦争体験者のインタビュー・ビデオの上映を行いました。(詳しくは、北ルソン日本人会JANLのブログで)。私は残念ながら参加できませんでしたが、バギオの市長やらお偉いさんが勢ぞろいで、ずいぶん盛大な会だったよう。神さんがふだん企画している、日本の若者たちによる小さな地味な上映会とはずいぶん趣が違ったようです。
 神さんの感想は「みんなバギオを愛しているのよネエ」。
 なるほど。

 神さんたちのバギオ滞在の最後は、日本軍の攻撃による銃弾の跡が残る廃墟をそのままおしゃれなカフェにしたという「Café By the Ruin」でのランチ。観光客にいちばん人気のバギオ名物のこのカフェも、日本との戦争の傷跡をそのまま残したものなのですから、カフェごはんはおいしくとも複雑な気持ちになります。
 神さんは知ってか知らずか、山岳民族が儀式の際につぶすトリ料理「ピヌピカン」をオーダーして口に運んでいました。ここで、亡くなったかもしれないすべての方々に合掌……
 
 それにしても、日本とバギオの因縁は知れば知るほど深いものがあります。北ルソン日本人会JANLでも、2009年のバギオ市政100周年を記念して、日本とバギオの歴史をテーマとした演劇制作を計画中だそう。山下大将が降伏文書にサインした9月3日のバギオ上演を目指して、準備を開始したそうです。この100年を節目に、新たな日本とバギオの平和的関係の象徴となる催しになることを期待しています。

by cordillera-green | 2008-11-11 18:48 | 戦争


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