カテゴリ:戦争( 4 )

Philippines JOCV HIROSHIMA NAGASAKI PEACE CARAVAN にむけて

2012年2月14日にCGNが山本公成さんと一緒に参加させていただいたイフガオ国立大学でのピースキャラバンについて、主催の青年海外協力隊・木村暁代さんの企画趣旨に関する文章です。木村さん、もうすぐ任期を終えて帰国されますが、長崎に戻った後も、ぜひイフガオでの体験を生かして環境教育や平和教育にそのタレントを生かしていってくださいね。そして、フィリピン&コーディリエラ地方&イフガオとの関係も何らかの形でつなげていきましょうね!

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私たち、長崎市、広島市出身者を中心としたフィリピン青年海外協力隊有志は、フィリピン各地で「原爆展」を開催するHIROSHIMA NAGASAKI PEACE CARAVANを立ち上げました。

このプロジェクトを呼びかけるまでに至った、私の極めて個人的な経緯についてここに記したいと思います。

私は2010年3月からフィリピン・北ルソンのイフガオ州に派遣されています。世界遺産の棚田のある静かで美しい場所です。ここの国立大学で学生に日本語を教えたり、文化交流や環境問題について学ぶイベントを企画したりしています。

イフガオ州は、日本軍とアメリカ軍が最後に激戦を繰り広げた場所であり、土地にも人の記憶にも、戦争の爪痕は深く残っています。恥ずかしい事に、私はフィリピンに来るまで陸軍大将「山下奉文」の名前を知りませんでしたが、日本人だと名乗ると、初対面でも戦争の話をされることが多々あります。そして今も現在進行形で日本兵の遺骨採集問題など多くの禍根が存在する、そういう土地です。

山岳少数民族であるイフガオの人々は自分自身のアイディンティティを大切にしていて、自分の住む土地や自然、伝統文化をとても愛しています。その姿に刺激を受けた私は、次第に自分自身のルーツについて考えるようになりました。日本人として、そして長崎の浦上という土地の血を受け継ぐものとして。

66年前、私の祖父は日本陸軍の兵士として、北ルソンで敗戦を迎えました。一年半のマニラでの捕虜生活ののち、故郷長崎に帰った彼を待っていたのは、一面の焼け野原と妻と母の死の知らせでした。その後、祖父は現在の私の祖母と再婚しました。祖母は原爆を生き延びた被爆者です。そして私の母が産まれ、姉と私と弟が産まれました。そうして私がいま、ここにいるわけです。

私は全ての戦争を憎みます。故郷の長崎を破壊し人々を殺戮した原爆を憎みます。
しかし同時に、おそらくあの戦争と原爆投下がなかったらこの世に生まれることのなかった自分の、そして奇しくも青年海外協力隊という日本政府のボランティアとしてイフガオという土地に派遣された自分の運命を見つめたいとも思います。

もうひとつの大きなきっかけは、2011年3月11日に起きた大震災と東京電力福島第一原発の大事故です。津波と放射能汚染という大きな苦しみにさらされている祖国の姿を、遠く異国の地から見つめるのはとても辛いことでした。何もできない自分が歯がゆかったです。今まで放射能や原子力利用のリスクについて、世の中に発信してこなかったことについて、積極的な行動を起こさなかったことについて、自分にも責任があるのではないか、そんな自問自答も生まれました。

そんな中、首都のドミトリーにあった永井隆博士の「長崎の鐘」を読む機会がありました。原爆は天罰だ、と騒がれていた当時の風評に対し「原爆投下は神の摂理だ。犠牲(生贄)になったのは善良なる人々。罪深い私たちは生きて、この世界を立て直す責任があるのだ」と言った博士の言葉に、現在の東北の人々の苦難と悲しみが透けて見え、涙が止まりませんでした。人間の魂の強さ、美しさは、どんな苦難を持っても汚すことはできません。この長崎の精神を世界に伝えたいと思いました。そしてどんなに小さくても、自分がやるべきことをやろう、と決意しました。

青年海外協力隊として、学校で働く青少年活動隊員として、長崎出身者として、フィリピンの子どもたちのために、ここで私ができることはなんだろう、と考えた結果はとてもシンプルなことでした。

日本が経験した原爆や被ばくによる放射線障害の恐ろしさをきちんと伝えること。
フィリピン人と日本人の交流を通して、お互いを知り、平和について語り合う時間を作ること。

今、この瞬間も、世界中で沢山の人々が命を落としています。人間の力ではどうすることもできない自然災害もあります。でも、原子爆弾も原子力発電も、そして戦争も人間の手で選ばれてきたものです。これからの選択ひとつひとつに「当事者」として関わる自覚と決意を持つこと。それが、広島・長崎・福島を経た私たちの、世界中の子どもたちに対する責任であり、最初の一歩だと思います。

どうすれば誰もが安心して暮らせる世の中にできるんだろう。
真の平和とは何なんだろう、戦争がないこと?
答えを急ぐ前に、まず「問い」を皆で探してみようと思います。

この「原爆展」プロジェクトが、フィリピン人、日本人、子ども、大人…年齢、国籍、政治、歴史、さまざまな立場を超えて、平和について、感じ、交わり、語りあえる機会になることを願っています。

21年度4次隊 フィリピン 青少年活動 木村暁代



For the Initiation of the Philippine JOCV Peace Caravan

We are the Japan Overseas Cooperation Volunteers and primarily those from Hiroshima and Nagasaki. We have established Hiroshima- Nagasaki Photo Exhibition Project which will be held in various places in the Philippines.
In this occasion of the first realizatin of such a project, I would like to share my personal experience that led to the organization of the group.
I have been posted to Ifugao, Northern Luzon since March 2010. It is a quiet, beautiful place with rice terraces that is listed as a world heritage. I teach Japanese and make projects concerning Japanese cultural exchange and learning environmental issues.
The province of Ifugao is where Japan and the U.S. fought the final battle. The legacy of the war still live in the memory of the people and land. I am embarrased to tell that I did not know the full name of General Yamashita, but I was told many times about the war once I introduced myself as a Japanese. The family and descendants of those who died there come back to pick up their loved one's remnants still now. Ifugao is such a place.
The people of Ifugao cherishes their identity as indigenous group, loves their traditinal culture, land and nature in which they live. Being among those people made me think of my own roots as a Japanese and a descendant of Urakami, Nagasaki.
66 years ago, my grandfather, who was a Japanese soldier at Northern Luzon, learned that Japan was defeated in the war. What awaited him after a year of life as POW in Manila, was a ruined city and the death of his wife and mother. Later, my grandfather married my grandmother. She was the survivor of the atrocity of the atomic bomb. My mother was born, then so my sister, my brother and I. And here I am today.
I condemn all wars. I condemn the atomic bomb that killed people and destroyed Nagasaki.
However, at the same time, I want to face my fate that I would not have been in the world if there was no war and the bomb, and I have been sent to Ifugao as a government- sponsored volunteer.
The other big event behind the forming of the Caravan is that the great eathquake on March 11, 2011 and the disaster of the Fukushima Daiichi neculear power stations opperated by the Tokyo Electronic Co. It was very hard for me just to look from awar at my country suffering from Tsunami and radiation contamination. I felt helpless that I could do nothing for them. I asked myself if I am also responsible for having not actively informed the society about the risk of radiation and the use of nuclear power.
That was when I read a book, “The bell of Nagasaki”, written by Dr. Takashi Nagai. Against the popular perception then that the Atomic bomb was the heaven's retribution, he wrote that “Atomic bomb was the God's providence. Ordinary good people were scrificed. We, the sinned people, have a responsibility to build this world anew.”
I could not stop my tears rolling down because I felt as if his words convey the suffering and sadness of people in Tohoku. The resilience and beauty of human soul cannot be diminished even in a great suffering. I did think that I want to tell the world the spirit of Nagasaki. I have to do what I should do no matter how small it would be.
What I can do, as a volunteer working at a shool and as a person from Nagasaki, is very simple: which is to tell people the reality of the Atomic bobms and the radiation sickness. Getting to know each other and talk about peace together with the Filipinos.
At this very moment, the people are dying around the world. One of the causes is natural disaster which is beyond human control. However, Atomic bombs, nuclear energy and war are what human kind has chosen. Recognizing that we are responsible to make a choice in each one of those aspects of our life is the first step to take and our responsibility, those of us who experienced Hiroshima, Nagsaki and Fukushima, to the children of the world.
What are the conditions for everyone to live a life in peace?
What is true peace? Absent of a war?
I want to search for questions together with you rather than for given answers.
I hope that this exhibit project will be an opportunity for the Filipinos, Japanese, children, and adults of all nations and age regardless of political historical positions, to feel, interact and talk about peace.


Akiyo Kimura
Representative
Philippine JOCV Peace Caravan

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by cordillera-green | 2012-02-14 10:16 | 戦争

大戦の記憶-イトゴンのカランテスさん

 亀井さんが知り合いの元兵士で生還者のSさんから、以前イトゴンのアンティーノ・カランテスさんという方のところで慰霊祭をやってお世話になったので会いにいってくださいと頼まれたということで、亀井さんと一緒に訪問しました。
 今年90歳というカランテスさん、背筋もしっかり伸び、かくしゃくとした雰囲気。耳は遠くなっているようですが、記憶はしっかりしていて、戦時中のこともよく覚えていらっしゃいました。
 カランタスさん、バタアン半島での戦いに加わり、日本軍の捕虜となって、あの「バタアン死の行進」で生き残り、ふるさとイトゴンに戻ってきたそうです。その後、抗日ゲリラに加わって日本軍と多々戦闘を交えたというのが彼の戦歴です。
「申し訳ないけれども、たくさんの日本兵を殺しました。あれは戦争でしたから」
とカランタスさんは言います。

 何しろ驚いたのは、町役場のすぐ脇にある彼の家の庭に作られているプライベート戦争博物館と、家の中の戦争の思い出の品々の展示です。屋外の展示には数々の大戦での戦闘地のミンチュアが作られ、ひとつずつに説明が書かれています。マシンガンや爆弾の破片の展示もあります。室内には、戦争で自分がかぶっていたヘルメットがきれいに緑色に塗られて飾られてるほか、銃や戦時中の携行品、たくさんの勲章、カランタスさんが属するイバロイ族の民族楽器の数々、戦争について記された書物などが展示されています。そして、屋内にも屋外にもセピア色に変色した数々の思い出の写真が飾られていました。どれもこれもホコリひとつかぶっておらず、きちんと手入れされていました。

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 亀井さんにカランタスさんのことを話したSさんと一緒に撮った写真もありました。Sさんが戦後何十年もたって訪ねてきてくれたことをとてもうれしそうにカランタスさんは話します。
「最近まで毎年きれいなカレンダーを送ってきてくれていたのにここのところ来ない。死んじゃったんじゃないかなと思っていた」とカランタスさん。亀井さんが元気だということを伝えると、とてもうれしそうでした。

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      ↑Sさんと一緒に撮った写真もていねいに展示されていました。

 あの戦争を忘れたくて忘れたくて仕方がない人が、日比両国にどれだけいるかわからない中で、できるだけ忘れないように、ミニチュアを作り、戦争の思い出の品を展示し、毎日毎日目にすることを戦後ずっと日課にしてきたカランテスさんのような人もいるのです。
 といっても、彼は決して戦争好きの血の気の多い乱暴ものだったわけではありません。カランテス家は、バギオやイトゴンで知られた由緒正しきイバロイ族のファミリーで、いまでもカランテス家の本家本筋ですといえば、一目おかれる存在です。カランテスさんの家にも「ファミリー・トゥリー」という家系図があって、「私の一方の祖父はバギオのプレジデントでした。もう一人のおじいさんはイトゴンのプレジデントでした」と言います。カランタスさんは、戦後もイトゴンのコミュニティ・リーダーとして数々の責任のある役職についてきたおだやかな人格者です。

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        ↑カランテス家の家系図

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        ↑プレジデントだったカランテスさんの祖父など祖先の写真

 60余年前、フィリピン人捕虜が1万人から2万人も亡くなったいうバタアン死の行進で日本人の捕虜になって、たぶん想像を絶するこの世の地獄を体験し、その後もたくさんの日本兵を殺し、仲間を殺され、それでも、今、日本人Sさんの安否を気遣っているカランタスさん。それも、彼が、戦争の記憶から逃げず、きちんと見据えた戦後60余年過ごしてきたからこそなのかもしれません。

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       ↑左から、カランタスさんの息子さん、亀井さん、奥様、そしてカランテスさん!
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by cordillera-green | 2008-11-23 21:35 | 戦争

大戦の記憶-マヤオヤオのナッチャジャン山

 今月頭にバギオを訪れた大戦関係の客さんが、亀井さん。戦時中にお父さんがボントク近くで爆撃によって亡くなられ、戦後、お父さんの慰霊に訪ねて以来、25年間にわたって、毎年何回かフィリピンに慰霊の旅にいらしています。

 最初はお父さんのためだった慰霊の旅が、そのうちお父さんの部隊の仲間たち、そしてすべてのフィリピンで亡くなった日本軍の兵士たちのためとなり、兵士たちの足跡を尋ね、お線香と卒塔婆と日本のお酒などを携え、ミンダナオから北部ルソンの山中まで、亡くなった兵士たちの魂に語り掛け、祈りの旅を続けていらっしゃいます。
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 また、戦争末期の日本軍の拠点だった大和基地のあったイフガオ州ティノック郡ワンワン村では、戦争の巻き添えになったフィリピンの人たちへのお詫びの気持ちもこめて、遺族や元兵士の方たちからお志を募り、大学生のための奨学金プログラムもされています。(亀井さんの詳しい活動については「三ヶ根山から始まる旅」というドキュメンタリービデオに詳しいです。お問い合わせは斉藤メディア事務所まで)

 フィリピンの大学の後期が始まる11月、奨学生たちの後期分の学費を携えてイフガオにいらした亀井さんが、今まで足を伸ばしたことのないマヤオヤオに行きたいということでお供することにしました。11月1日はオール・セインツ・デイといっていわばフィリピンのお盆。フィリピンの人たちは田舎に帰り先祖代々のお墓にお参りに行きます。ちょうど子供たちも学期末の休みでしたので、亡くなった日本人の兵隊さんの慰霊をかねての家族旅行となりました。

 マヤオヤオでの目的の山は、以前セミナーや事業の視察の際に聞かされた、日本兵が篭城して戦い抜いたというナッチャジャン山。人々の話では、そこで亡くなった日本兵の遺体は収容されておらず遺骨も残っているのではないかということでした。
 マヤオヤオの中心から車でがたがた山道を20分ほど。そこからガイドのレアンドロ君の案内で険しい山道を登り、日本軍が篭城していたという山頂に30分ほどで着きました。崩れかけてはいるものの戦後60年以上経っていても、日本兵が篭城のために岩を積んで作ったという岩壁と、塹壕のあとはそのままで、生々しい戦いの形跡が見て取れました。
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 レアンドロ君の高校時代の歴史の先生で、郷土史家のロバート・ボンガヨンさんという上品なおじさんに翌日インタビューしたところ、本当によくマヤオヤオの歴史をご存知で、老人たちから収集したという日本軍の話をしてくれました。
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 もともとマヤオヤオには2年間ほど日本軍がそれほど多くない人数ですが駐屯していたそうです。彼らは日本語を村人に教え、友好的な関係を村人たちと保っていたそう。そういえば、それまでの来訪でも何度も日本の歌を歌ってくれる老人たちに会いました。それが、バナウエ方面から別の部隊がやってきて、食べ物の略奪のために家々を焼き払うなどしたため、住民たちはゲリラとして日本軍と戦ったといいます。
 その後、終戦間近になり、イサベラ州から背水の陣でマガット川を越えてイフガオ州に逃げ込んできた日本兵が約3000名。マヤオヤオを経由してバナウエ方面に移動しようとしましたが(大和基地はバナウエのずっと向こうです)、すでに敵軍に封鎖されており、もう一度マヤオヤオに戻って、ナッチャジャン山を越え、マウンテン州のナトーニンに向かったのだそうです。
 マガット川を越えて険しい山を登り、マヤオヤオまでたどり着いた兵は約半数の1500人。そのうちナッチャジャン山の山頂に味方を逃がすために残されたのはわずか50人。「死守せよ」の上官の命を受け、険しい自然の岸壁をタテに50人はゲリラ部隊との攻防戦を続けましたが、最終的には米軍の空爆により全滅したというのがロバートさんのお話でした。
 バナウエから来る兵を、マヤオヤオのゲリラが狙撃したという山道にも案内してもらいましたが、このバナウエから続く道には、累々と病気や飢えで亡くなった兵の死体が転がっていたといいます。

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 ↑日本兵が狙撃されたという場所。以前はバナウエとマヤオヤオをつなぐ唯一のルートでしたが、今は車が通れるどうとができたため荒れ果てています。

 さて、戦後のナッチャジャン山の日本軍と日本兵の遺留品と遺骨には何が起こったのでしょう。ガイドのレアンドロ君&郷土史家のロバートさんの話をまとめてみると……

・ナッチャジャン山は奥深い山で当時は野生のイノシシがたくさんいたから、たぶんほとんどの遺体はそのエサになってしまっただろう。
・80年代に日本人がやってきて、元兵士の頭蓋骨を毛布3枚と交換すると言った。そのため、住民たちはナッチャジャン山をはじめ、マヤオヤオのあらゆる場所の放置されたままだった遺骨を掘り出して毛布と交換した。
・山下財宝を探すためにたびたび宝探しの人がやってきて、日本軍がいた場所を掘っていった。
・金属の値段が高騰した際に(90年代?)、住民たちは山頂付近で放置されたままだった爆弾のカケラや銃の残骸などの遺留品もみな集めていって売った。山頂近くの岩に食い込んでいた弾まで掘り出した。

 というわけで、ナッチャジャン山には、日本兵たちの篭城の形跡を残した遺骨や遺留品はすでに掘りつくされていて何も見つかりませんでした。
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          ↑ナッチャジャン山山頂付近
 
 このナッチャジャン山、今は、ハイカーたちの展望スポットとして登山者に知られるようになり、数週間前にはアロヨ大統領のお嬢さんもお友達とお忍びでいらしたとか。フィリピンの眺めのいいところには必ず見る携帯電話会社の鉄塔もしっかり立っていました。
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 しかし、きっとこの美しい棚田の風景は60余年前も今も変わらず、勤勉なる人の営みが作り出した朝日に輝く棚田の風景を見ながら、戦争に巻き込まれ死んで行った兵士たちのことを思うと胸が苦しくなりました。なんと人間は、賢く、そして愚かなものなのか、この山からの風景はすべてを物語っているようでもありました。

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by cordillera-green | 2008-11-22 11:03 | 戦争

第二次世界大戦の記憶

 ここバギオと北ルソンは、第二次世界大戦の激戦地と日本軍の降伏の地として知られています。フィリピンで亡くなった日本兵は51万8千人に及びます。(すごい数ですが、この戦争で亡くなったフィリピン人は110万人といわれ、日本人戦死者の2倍以上です。)
 そういう土地柄ですから、終戦後60年以上たった今も、フィリピンの方の中には心の奥底に大戦でのいろいろな思いを秘めていらっしゃる方もいますし、フィリピン戦を戦った元日本兵、この地で亡くなった日本兵の遺族など、今も多くの方がコーディリエラ地方を訪ねていらっしゃいます。
 私が最初に立教大学のチャペルが主催するスタディツアーで北ルソンのマウンテン州を訪ねた1984年には、山の村でずいぶんたくさんの戦争の話を聞き、自分の無知さ加減にショックを受けました。バギオに移り住み、観光地としてはほとんど知られていないこの地を訪れる日本人のほとんどが、大戦で亡くなった兵士たちの慰霊の方たちという事実にも驚きました。
 遅ればせながら、ベンゲット道路建設のために移民した日本人に始まった北ルソンと日本の100年以上に及ぶ歴史、大戦での悲惨な出来事などを、本や人々の話から学び、今現在この地に居を構えている数少ない日本人の一人として、機会があれば、戦争の傷を癒し、日比の新たな関係を築くためのお手伝いをさせていただいてきました。

 
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10月末から11月の頭にかけて、二人の大戦関係のお客さんがありました。
 その一人が、「Bridge for Peace」というNGOを主宰する神直子さん。青山学院大学時代にスタディツアーでフィリピンを訪れ、生々しい大戦での体験をフィリピン人のおばあさんから聞き、たいへんショックを受けたそう。日本の若い人たちに戦争の本当の姿を知ってほしいという思いから、日比両方の戦争体験者にインタビューをし、その映像を日本の大学やフィリピンのさまざまな場所で紹介するという活動をしています。

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 まだ、30歳の神さん。どんどん仲間たちの環を広げながら、仕事の合間を見て日本全国&フィリピンを飛び回っている行動力あふれる美女!です。しかも子供たちとも気さくに遊んでくれるやさしいお姉さん!

 今回、バギオ訪問は初めてということで、この地でしか会えない日系人の方たちに戦争体験を聞いてみたらどうかと提案し、アボン(Philippin-Japanese Foundation of Northern Luzon=北ルソン比日財団)のご協力を得て、インタビューを行いました。
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 集まってくださったのは、こんな白髪のおばあさま方。戦時中はまだ幼かった方も多く、子供時代の戦争体験のお話を多くしていただきました。

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 次に、今は日本の名誉総領事に任命されているカルロス寺岡さんを、バギオのご自宅に訪問。戦前、日本人がバギオの経済の中心を担っていた時代の豊かな生活、いっぺんして日本軍がバギオに空襲を開始した戦火のバギオでの体験、戦況が日本に不利になってからの陸軍と共にした山岳部への逃避行……そして、戦後、日本に送還され、後にフィリピンに戻って今の地位と財を築くまでのお話は、波乱に満ちた長い長い苦労の連続の体験で、とても数時間でお聞きできる内容ではありませんが、寺岡さんはとてもわかりやすく、淡々とお話してくださいました。
 山への逃避行の途中で目の前で母親と兄弟を亡くし、年上の二人の兄はそれぞれ日本側とフィリピン側に殺されたという寺岡さんの悲惨な戦争体験とその後の人生は、フィリピンと日本という二つの国の狭間にあったすべての日系人の方たちの苦悩を代表している声だと思いました。

 その後、「足を悪くしてアボンに出向けないのですが、ぜひ来てください」といっているという長岡さんという日系人の方を訪ねて、ラ・トリニダードに向かいました。戦争体験を伺いたいという意図は伝わっていたはずなのに、神さんが
「戦争のお話しをしていただけますか?」
 と切り出したとたんに、涙ぐまれ
「戦争の話でしたら、ごめんなさい。やはり話せません。お父さんお母さんも兄弟もみんな死んでしまいましたから。私だけ生き残りました」
 と、とてもきれいな日本語であやまられ、声を詰まらせておられました。
 私たち日本人の来訪にはそれまでインタビューしたどなたよりも喜びを表してくださったのに、戦争の話は思い出すだけでも涙が止まらない……言葉にはならない悲しみを痛いほど感じ、「また、絶対来てくださいね」という言葉を背に長岡さんのお宅をあとにしました
 
 神さんの感想はBFPのブログで読んでくださいね。
 
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 翌日は、日系人のおばあさんたちの話に何度も出てきたキャンプ・ジョン・ヘイに、子供たちも連れて出かけました。真珠湾の攻撃からまもなくして、日本軍がキャンプ・ジョン・ヘイを攻撃してフィリピン戦が幕を明けました。そして、1945年、イフガオ州のキアガンで投降した山下奉文(ともゆき)陸軍大将が降伏文書に署名したのもキャンプ・ジョン・ヘイです。いまはアメリカ大使公邸となっている建物が会場だったそうです。
 つまり、フィリピン戦はキャンプ・ジョン・ヘイで始まり、キャンプ・ジョン・ヘイで終わったわけです。今は、すっかりマニラからのお金持ちたちのリゾート地として姿を替えていますが……。
 私たちはそんな歴史に思いを馳せながら、松林の中で思いっきり深呼吸をしました。
 
 神さんたちはバギオ市政100周年記念の平和イベントにも参加して戦争体験者のインタビュー・ビデオの上映を行いました。(詳しくは、北ルソン日本人会JANLのブログで)。私は残念ながら参加できませんでしたが、バギオの市長やらお偉いさんが勢ぞろいで、ずいぶん盛大な会だったよう。神さんがふだん企画している、日本の若者たちによる小さな地味な上映会とはずいぶん趣が違ったようです。
 神さんの感想は「みんなバギオを愛しているのよネエ」。
 なるほど。

 神さんたちのバギオ滞在の最後は、日本軍の攻撃による銃弾の跡が残る廃墟をそのままおしゃれなカフェにしたという「Café By the Ruin」でのランチ。観光客にいちばん人気のバギオ名物のこのカフェも、日本との戦争の傷跡をそのまま残したものなのですから、カフェごはんはおいしくとも複雑な気持ちになります。
 神さんは知ってか知らずか、山岳民族が儀式の際につぶすトリ料理「ピヌピカン」をオーダーして口に運んでいました。ここで、亡くなったかもしれないすべての方々に合掌……
 
 それにしても、日本とバギオの因縁は知れば知るほど深いものがあります。北ルソン日本人会JANLでも、2009年のバギオ市政100周年を記念して、日本とバギオの歴史をテーマとした演劇制作を計画中だそう。山下大将が降伏文書にサインした9月3日のバギオ上演を目指して、準備を開始したそうです。この100年を節目に、新たな日本とバギオの平和的関係の象徴となる催しになることを期待しています。
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by cordillera-green | 2008-11-11 18:48 | 戦争