<   2008年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

CGNの播いた種

 観光省コーディリエラ地方支部(DOT-CAR)主催の観光イベント「WOWフィリピン」が先週末に行われ、コンベンション・センターで行われていた「Cordillera Theatrical Cultural Performance」なるものを覗きにいきました。
b0128901_21554649.jpg

 なんだか昨年12月にコーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)が行った「コーディリエラ・ユース・エコサミット」の環境コミュニティ・シアター・フェスティバルにそっくりな企画。
考えてみたら、昨年、「少しでも集客になるかしらん」と思って、DOT-CARに、「WOWフィリピンのプログラムに加えてくれませんか」と、企画書を持って頼みに行きました。そのときDOTのディレクターには「いい企画ネエ」とお褒めの言葉をいただき、「カラフルで素敵なポスターじゃない」と部下のスタッフをわざわざよんで見せてくれ、「私たちでさえ、アブラやアパヤオから参加者を招待するのが大変なのよ。がんばっているわねえ」と感心され、その後、すっかりWOWフィリピンのプログラムのように新聞などに掲載してくれたのです。どうやら、今年は、DOTの自主企画ということですっかりパクられてしまったようです。違うのは、テーマを環境に限定していないことと、コンテスト形式で、1位、2位と順位をつけて賞金を出していたことでしょうか。
 幸いにも、今年度の私たちのエコサミットはイフガオ州とカリンガ州での開催なので、バッティングすることがなくほっとしましたが、なんだかがっかりしてしまって、いくつかのグループのパフォーマンスだけ見て帰ってきました。その感じでは、カルチュラル・ショーが中心で、演劇的な要素がないな、ということ。演劇ってなんだか基礎さえわかってないないな、ということ。
 あとで、聞いたところ、高校部門の優勝はベンゲット州カバヤン、カレッジ部門の優勝はイフガオ州のハパオで、いずれも昨年のエコサミットに参加したグループだったそうです。
 昨年のエコサミットではCGNは山岳地方の5つのコミュニティに、演劇ファシリテーターを派遣し、高校生たちに環境をテーマとした作品を制作してもらいました。マウンテン州のタジャンやアブラ州のブクロクのように、もともと演劇グループがあったところもありましたが、カリンガ州パシルのように、エコサミットのために新たにオーディションを行なって演劇グループを作ってゼロからのスタートを切ったところもありました。
b0128901_21562681.jpg

 WOWフィリピンで受賞したベンゲット州カバヤンの演劇グループは、2年ほど前にCGNが行った環境演劇ワークショップをきっかけにできたグループ。イフガオ州ハパオの「Theatro Kabakab」は、だいぶ前にマニラのPETA(フィリピン教育演劇協会)が演劇ワークショップを一度だけ行ってそのときにグループができたものの活動が停止状態だったのを、エコサミットで活動を再開したものでした。
 私たちが主催したイベントの1回だけ公演活動ではなく、参加してくれたグループがその後も自主的に活動を続けて、環境へのメッセージをいろいろな場で発信し続けてくれているのはとてもうれしいことです。
 昨年、ハパオに指導に行った演劇ファシリテーターのフェルディはハパオグループの受賞を聞いて大変な喜びよう。自分の手を離れた子供の成長を喜ぶお父さんの顔をしていました。「今年度のエコサミットの指導もがんばるぞ」とやる気満々です。
 企画を盗まれるのは悲しいことですが(フェルディによるとこの国ではよくあることらしいです。そういえば今年のアースデイでも同じ問題が起きました。お役所は、企画ベタで、NGOの企画をパクるのが得意!)、それだけ、いい企画だったということですよね。これからも、1回限りでなく、長く長く参加者が自主的に継続してくれるようなインパクトの強い企画を立てて実現していきます!
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-28 21:49 | 環境イベント

バギオ・ミッドランド新聞 11月23日号

 「ミッドランド」は、毎週日曜日発刊の圧倒的人気を誇るバギオの地方新聞です。この間の日曜発行の号に、コーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)関係の二つの記事が掲載されていました。
b0128901_13616.jpg

 一つ目は、CGNがラ・トリニダードのLittle Flower Childeren’s Home という小学校でWWF-Philippines(世界自然保護基金フィリピン支部)の環境教育セミナーをコーディネイトして、環境保全の大切さを子供たちに伝えました!という記事です。

b0128901_1371896.jpg 私は、他の用事が入っていてほんとうに残念ながら今回は参加できませんでしたが、スタッフの話では、さすが経験、人材、資金力とも十分な団体だけあって、環境教育マテリアル満載のプロジェクト専用カーで登場し、さまざまなよく練られたアトラクションで、子供たちをあっと言う間に引き込んで、手際よく1時間半あまりのプログラムを終えていったということです。

 今回のWWFの環境教育ツアーのテーマはおもに海洋関係で、ウミガメ、イルカ、ジュゴンなどなど貴重な海洋生物の保護を教える内容が中心。フィリピン全土の、おもに海岸近くのさまざまな学校をこの専用カーで回っています。海のないバギオや山岳地方は、今回のプロジェクトの訪問予定には入っていませんでしたが、一度どうしても、WWFの環境教育キャラバンを目にして学ばせていただきたい!というCGNの以前からのリクエストに応じてくださり、海沿いのラ・ウニオン州に来たついでに足を伸ばしてくれたというわけです。
 WWFさん。次回は、ぜひ、山の動物たちの保護でお願いします! 生態系関係や生物の調査や教育マテリアル開発は、私たちCGNには専門家がおらず弱いところなのです。今後も協力しながら、楽しい環境教育プログラムを展開していきたいと思っています。

 さて、ミッドランド紙のもうひとつの記事は、私たちの環境教育ファシリテーター、JPアリピオ君の写真記事です。環境ファシリテーターのほかに、写真家、登山家、そしてマウンテン・バイカーという多彩な顔を持つJP。ベンゲット州山中を24時間ぶっ通しでマウンテンバイクで走破するエコ・プロジェクト「コーディリエラ地方の苗木のためのマウンテンバイク・ツーリング(Padyak Para sa Binhi ng Kordi)」を行なったというものです。
b0128901_1381811.jpg

 左の写真の3人のバイカーのいちばん右がJP君(右の写真のムキムキマンは関係ありません!)。
 トリニダードを出発し、アンブクラオ→ボコッド→カバヤン→ブギアス→シニプシップ→アンシップシップ→パリナ→キブガン→カパンガンのタバアオまでの206キロを24時間で走り抜きました。途中止まったのは、トイレとバナナ&クッキーの補給のみ(水は背中に背負って走っています!)。プロジェクトのために集めたお金で苗木を買って、山岳地方の植林を行うというのが、この24時間ツーリングの目的です。

 で、CGNは、万が一の時のための予備の自転車や、水・食糧を運ぶためのおんぼろピックアップ・トラックのサポートカーとしての無料提供と、24時間寝ずにドライブできる若者ドライバー・ジョナルド君(アーネルの甥です)のボランティア参加で全面支援しました。
「おんぼろピックアップが、黒いスモークなど撒き散らしてはがんばるJP君に顔が立たない」
と、ずいぶん念入りに整備したつもりだったのに、どうも、ジョナルド君がバッテリーのチェックを怠っていたようで……。

「出発して早くも30分で、後方からピックアップの気配がなくなって……」とJP。

「ええええ?ほんと?ごめん?もしかして、ただの足手まといになってしまいました?」と私。

「いや、ちゃんとあとで追いついてきたから大丈夫。いずれにしろベンゲット州政府が前面サポートで、終始ポリスの車が警備してくれたから。荷物はあとからでも問題ないからね。感謝しています」
さすが、JP。優しいお言葉ありがとう。

こちらのサイトにこのプロジェクトの写真がばっちり掲載されていますので、ぜひ覗いてみてください。CGNおんぼろピックアップとジョナルド君も登場してます。
padyak parasa binhi オフィシャルサイト

「Our Support Car needed support(私たちのサポートカーもサポートが必要でした!」
なんてキャプションのついた、みんなで車を押している写真までありました。
ほんとすいません!

いろいろなアイデアとやり方で、いろいろな人たちが、それぞれが暮らしている環境のためにできることをやること。これが、地球のためになるのです。CGNはこれからも、思いを同じくするさまざまな人とのネットワークを広げながら活動していきます!

b0128901_9105281.jpg

        ↑JPたちのプロジェクトのポスターです
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-27 13:10 | 環境教育

HCRCIからの大きなありがとう!

 「未来予想図プロジェクト実行委員会」「コーディリエラ・グリーン・ネットワーク」そして、「Heaven of Care Resource Center Inc.(HCRCI)」の3つのグループが、それぞれの立場から世界の子供たちの明るい未来を願って手を組んで始めた「世界未来予想図」プロジェクト。8月のスタートから今までに、マウンテン州サバンガン、イフガオ州マヤオヤオ、ベンゲット州サブラン、カリンガ州パシルの小学生、そして、HCRCIの障害のある子供たちを対象に「未来予想図」を描いてもらってきました。

 今までの経緯については以下のブログの記事を読んでくださいね。
CGNブログ
http://cordillera.exblog.jp/i16/
CGNボランティアスタッフのブログ
http://ameblo.jp/cordillera/theme-10006436160.html
 今週末にアパヤオ州の小学校の6年生たちに、そして、12月6日にカリンガアパヤオ州立大学で学ぶ大学生たちに、未来予想図を描いてもらいます。
 そして12月13日にベンゲット州ブギアスでのHCRCIの障害者とその親たちのためのミーティングで、もう一度障害のある子供たちに絵を描いてみてもらおうと思っています。前にも描いてもらったのですが、絵を描いた経験がないのでなかなか描けないのです。でも繰り返し描いてみようと挑戦することが、未来を思い描くチカラにつながっていくと信じています。

b0128901_16472423.jpg

 今までに集まった子供たちの未来がたくさんの絵は、クリスマスのころまでには、日本の「未来予想図プロジェクト」のみなさんの手に届くことになると思います。山岳地方の少数民族の子供たちの夢を、日本のみなさんがどんな風に受け止めてくれるか、いまからとてもわくわくします。

 今までに「未来予想図プロジェクト」からお送りいただいたご寄付に対して「HCRCI」のアイリーンさんからお礼の手紙と報告が届きました。手紙には
「あなた方のサポートは、障害のある子供たちだけでなく、その家族、家族が暮らすコミュニティが今までかなえられずにきた夢の実現のための大きな力になっています」とありました。

 HCRCIの活動の目標は、「障害者の社会参加」「人権の保護」「公平な機会の供与」です。その実現に向けて、4つのプログラムを行っています。世界未来予想図プロジェクトが始まってからのこの3ヶ月のHCRCIのおもな活動をご紹介します。

1.医療面でのサポート…
アイリーンはセラピストでもあり、障害者の子供たちに対して、カウンセリングによるセラピー、タッチ・セラピー、フィジカルセラピーを、訪ねてくるすべての障害者の方たちに無料で行っています。加えて、未来予想図委員会からのご寄付で購入したビタミン剤を配布できるようになりました。この10月までの3ヶ月で78名の子供たちにビタミン剤を配布してきました。
b0128901_16465215.jpg


2.教育面でのサポート
障害のある子供たちのためのアート教室を開催しました。また、障害がありながら学校に通う意欲のある子供たちに、今まで貧困が原因で買えなかった文具などを未来予想図委員会からのご寄付で購入し支給しました。
b0128901_16494991.jpg


3.経済面でのサポート
障害のある若者や成人が自立に向けて技術を身につけられるように、サヨテ(ハヤトウリ。日本でも九州などで見られます)のピクルスの作り方の講習会を行いました。

4.社会参加のためのサポート
障害のある子供たちが一般の小学校の教室で学んでいくためにはどうしたらいいか、大学の教育学部の学生たちを対象に講義を行いました。44名の学生たちが参加しました。
b0128901_16484334.jpg


 ほかに、HCRCIがカウンセリングやセラピーのためのスペースを持っているバギオ市やブギアス郡アバタンに、交通費がなくて来られない障害者やその家族のために、ベンゲット州カパンガンなどのコミュニティを訪ね、障害者の家族に対する指導を行ったそうです。
b0128901_16505290.jpg



 アイリーンは2002年のHCRCI設立以来、ひっきりなしに訪ねてくる障害のある人たちのためにボランティアでセラピーを行ってきました。しかし、「セラピーは自分の身体を使えばいいからいいの。でも、訪ねてくる障害のある人たちの多くが栄養障害で、そのためにビタミン剤を与えなくてはいけないと思ってもそれを買うお金がなかったのよ」と言います。

 アイリーンの話によると、フィリピンでの心身両面における障害児たちの多くは、重度の栄養失調がその原因とされているそうです。ビタミンAの不足により、フィリピンでは毎日17人の子供たちが視力を失っているのだそう。

 「日本の方たちから、寄付の申し出があるのよ。まずなにが必要かな?」とたずねたら、間髪おかずに「ビタミン剤」と応えたアイリーン。今まで、明らかにビタミン不足が原因とわかるケースを数知れなく目にしてきたのでしょう。未来予想図プロジェクトからの寄付は、たくさんの子供たちの命を救ってくれています。
 どうもありがとうございます!

b0128901_1652328.jpg
b0128901_16524971.jpg
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-25 16:54 | みんなの未来予想図

大戦の記憶-イトゴンのカランテスさん

 亀井さんが知り合いの元兵士で生還者のSさんから、以前イトゴンのアンティーノ・カランテスさんという方のところで慰霊祭をやってお世話になったので会いにいってくださいと頼まれたということで、亀井さんと一緒に訪問しました。
 今年90歳というカランテスさん、背筋もしっかり伸び、かくしゃくとした雰囲気。耳は遠くなっているようですが、記憶はしっかりしていて、戦時中のこともよく覚えていらっしゃいました。
 カランタスさん、バタアン半島での戦いに加わり、日本軍の捕虜となって、あの「バタアン死の行進」で生き残り、ふるさとイトゴンに戻ってきたそうです。その後、抗日ゲリラに加わって日本軍と多々戦闘を交えたというのが彼の戦歴です。
「申し訳ないけれども、たくさんの日本兵を殺しました。あれは戦争でしたから」
とカランタスさんは言います。

 何しろ驚いたのは、町役場のすぐ脇にある彼の家の庭に作られているプライベート戦争博物館と、家の中の戦争の思い出の品々の展示です。屋外の展示には数々の大戦での戦闘地のミンチュアが作られ、ひとつずつに説明が書かれています。マシンガンや爆弾の破片の展示もあります。室内には、戦争で自分がかぶっていたヘルメットがきれいに緑色に塗られて飾られてるほか、銃や戦時中の携行品、たくさんの勲章、カランタスさんが属するイバロイ族の民族楽器の数々、戦争について記された書物などが展示されています。そして、屋内にも屋外にもセピア色に変色した数々の思い出の写真が飾られていました。どれもこれもホコリひとつかぶっておらず、きちんと手入れされていました。

b0128901_21244452.jpg
b0128901_21273286.jpg

b0128901_21304324.jpg


 亀井さんにカランタスさんのことを話したSさんと一緒に撮った写真もありました。Sさんが戦後何十年もたって訪ねてきてくれたことをとてもうれしそうにカランタスさんは話します。
「最近まで毎年きれいなカレンダーを送ってきてくれていたのにここのところ来ない。死んじゃったんじゃないかなと思っていた」とカランタスさん。亀井さんが元気だということを伝えると、とてもうれしそうでした。

b0128901_21301696.jpg

      ↑Sさんと一緒に撮った写真もていねいに展示されていました。

 あの戦争を忘れたくて忘れたくて仕方がない人が、日比両国にどれだけいるかわからない中で、できるだけ忘れないように、ミニチュアを作り、戦争の思い出の品を展示し、毎日毎日目にすることを戦後ずっと日課にしてきたカランテスさんのような人もいるのです。
 といっても、彼は決して戦争好きの血の気の多い乱暴ものだったわけではありません。カランテス家は、バギオやイトゴンで知られた由緒正しきイバロイ族のファミリーで、いまでもカランテス家の本家本筋ですといえば、一目おかれる存在です。カランテスさんの家にも「ファミリー・トゥリー」という家系図があって、「私の一方の祖父はバギオのプレジデントでした。もう一人のおじいさんはイトゴンのプレジデントでした」と言います。カランタスさんは、戦後もイトゴンのコミュニティ・リーダーとして数々の責任のある役職についてきたおだやかな人格者です。

b0128901_2131142.jpg

        ↑カランテス家の家系図

b0128901_21341316.jpg

        ↑プレジデントだったカランテスさんの祖父など祖先の写真

 60余年前、フィリピン人捕虜が1万人から2万人も亡くなったいうバタアン死の行進で日本人の捕虜になって、たぶん想像を絶するこの世の地獄を体験し、その後もたくさんの日本兵を殺し、仲間を殺され、それでも、今、日本人Sさんの安否を気遣っているカランタスさん。それも、彼が、戦争の記憶から逃げず、きちんと見据えた戦後60余年過ごしてきたからこそなのかもしれません。

b0128901_21325728.jpg

       ↑左から、カランタスさんの息子さん、亀井さん、奥様、そしてカランテスさん!
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-23 21:35 | 戦争

大戦の記憶-マヤオヤオのナッチャジャン山

 今月頭にバギオを訪れた大戦関係の客さんが、亀井さん。戦時中にお父さんがボントク近くで爆撃によって亡くなられ、戦後、お父さんの慰霊に訪ねて以来、25年間にわたって、毎年何回かフィリピンに慰霊の旅にいらしています。

 最初はお父さんのためだった慰霊の旅が、そのうちお父さんの部隊の仲間たち、そしてすべてのフィリピンで亡くなった日本軍の兵士たちのためとなり、兵士たちの足跡を尋ね、お線香と卒塔婆と日本のお酒などを携え、ミンダナオから北部ルソンの山中まで、亡くなった兵士たちの魂に語り掛け、祈りの旅を続けていらっしゃいます。
b0128901_10594463.jpg
 
 また、戦争末期の日本軍の拠点だった大和基地のあったイフガオ州ティノック郡ワンワン村では、戦争の巻き添えになったフィリピンの人たちへのお詫びの気持ちもこめて、遺族や元兵士の方たちからお志を募り、大学生のための奨学金プログラムもされています。(亀井さんの詳しい活動については「三ヶ根山から始まる旅」というドキュメンタリービデオに詳しいです。お問い合わせは斉藤メディア事務所まで)

 フィリピンの大学の後期が始まる11月、奨学生たちの後期分の学費を携えてイフガオにいらした亀井さんが、今まで足を伸ばしたことのないマヤオヤオに行きたいということでお供することにしました。11月1日はオール・セインツ・デイといっていわばフィリピンのお盆。フィリピンの人たちは田舎に帰り先祖代々のお墓にお参りに行きます。ちょうど子供たちも学期末の休みでしたので、亡くなった日本人の兵隊さんの慰霊をかねての家族旅行となりました。

 マヤオヤオでの目的の山は、以前セミナーや事業の視察の際に聞かされた、日本兵が篭城して戦い抜いたというナッチャジャン山。人々の話では、そこで亡くなった日本兵の遺体は収容されておらず遺骨も残っているのではないかということでした。
 マヤオヤオの中心から車でがたがた山道を20分ほど。そこからガイドのレアンドロ君の案内で険しい山道を登り、日本軍が篭城していたという山頂に30分ほどで着きました。崩れかけてはいるものの戦後60年以上経っていても、日本兵が篭城のために岩を積んで作ったという岩壁と、塹壕のあとはそのままで、生々しい戦いの形跡が見て取れました。
b0128901_10391155.jpg
 

 レアンドロ君の高校時代の歴史の先生で、郷土史家のロバート・ボンガヨンさんという上品なおじさんに翌日インタビューしたところ、本当によくマヤオヤオの歴史をご存知で、老人たちから収集したという日本軍の話をしてくれました。
b0128901_10404697.jpg


 もともとマヤオヤオには2年間ほど日本軍がそれほど多くない人数ですが駐屯していたそうです。彼らは日本語を村人に教え、友好的な関係を村人たちと保っていたそう。そういえば、それまでの来訪でも何度も日本の歌を歌ってくれる老人たちに会いました。それが、バナウエ方面から別の部隊がやってきて、食べ物の略奪のために家々を焼き払うなどしたため、住民たちはゲリラとして日本軍と戦ったといいます。
 その後、終戦間近になり、イサベラ州から背水の陣でマガット川を越えてイフガオ州に逃げ込んできた日本兵が約3000名。マヤオヤオを経由してバナウエ方面に移動しようとしましたが(大和基地はバナウエのずっと向こうです)、すでに敵軍に封鎖されており、もう一度マヤオヤオに戻って、ナッチャジャン山を越え、マウンテン州のナトーニンに向かったのだそうです。
 マガット川を越えて険しい山を登り、マヤオヤオまでたどり着いた兵は約半数の1500人。そのうちナッチャジャン山の山頂に味方を逃がすために残されたのはわずか50人。「死守せよ」の上官の命を受け、険しい自然の岸壁をタテに50人はゲリラ部隊との攻防戦を続けましたが、最終的には米軍の空爆により全滅したというのがロバートさんのお話でした。
 バナウエから来る兵を、マヤオヤオのゲリラが狙撃したという山道にも案内してもらいましたが、このバナウエから続く道には、累々と病気や飢えで亡くなった兵の死体が転がっていたといいます。

b0128901_10443315.jpg

 ↑日本兵が狙撃されたという場所。以前はバナウエとマヤオヤオをつなぐ唯一のルートでしたが、今は車が通れるどうとができたため荒れ果てています。

 さて、戦後のナッチャジャン山の日本軍と日本兵の遺留品と遺骨には何が起こったのでしょう。ガイドのレアンドロ君&郷土史家のロバートさんの話をまとめてみると……

・ナッチャジャン山は奥深い山で当時は野生のイノシシがたくさんいたから、たぶんほとんどの遺体はそのエサになってしまっただろう。
・80年代に日本人がやってきて、元兵士の頭蓋骨を毛布3枚と交換すると言った。そのため、住民たちはナッチャジャン山をはじめ、マヤオヤオのあらゆる場所の放置されたままだった遺骨を掘り出して毛布と交換した。
・山下財宝を探すためにたびたび宝探しの人がやってきて、日本軍がいた場所を掘っていった。
・金属の値段が高騰した際に(90年代?)、住民たちは山頂付近で放置されたままだった爆弾のカケラや銃の残骸などの遺留品もみな集めていって売った。山頂近くの岩に食い込んでいた弾まで掘り出した。

 というわけで、ナッチャジャン山には、日本兵たちの篭城の形跡を残した遺骨や遺留品はすでに掘りつくされていて何も見つかりませんでした。
b0128901_1049458.jpg

          ↑ナッチャジャン山山頂付近
 
 このナッチャジャン山、今は、ハイカーたちの展望スポットとして登山者に知られるようになり、数週間前にはアロヨ大統領のお嬢さんもお友達とお忍びでいらしたとか。フィリピンの眺めのいいところには必ず見る携帯電話会社の鉄塔もしっかり立っていました。
b0128901_1111582.jpg

 しかし、きっとこの美しい棚田の風景は60余年前も今も変わらず、勤勉なる人の営みが作り出した朝日に輝く棚田の風景を見ながら、戦争に巻き込まれ死んで行った兵士たちのことを思うと胸が苦しくなりました。なんと人間は、賢く、そして愚かなものなのか、この山からの風景はすべてを物語っているようでもありました。

b0128901_1124538.jpg

[PR]

by cordillera-green | 2008-11-22 11:03 | 戦争

事故にあった奨学生&スタッフ・元気を取り戻しています

 あの事故から早くも1ヵ月半。スタッフのローデスも奨学生のレアも、社会復帰に向けて前向きに動き出しました。
 事故のその日から彼女たちの看病に付き添ってくれたインターンの松野下さんが、スタッフ・ブログで経過を書いてくれています。ぜひ覗いてみてください。

Cordillera Green Network Staff 日記

松野下さんの新鮮な驚きに満ちたスタッフ日記、とても面白いので、他の記事も読んでみてくださいね。環境教育の修行に来たはずなのにいつも脱線している珍道中ですねえ。

しかし、彼女が何でもかんでも食べちゃうのには驚いています。
「噛み付かれたら危ない……」
とスタッフの一人がつぶやいていました。

b0128901_10142728.jpg

↑ルブアガンでの市制100年祭では、浴衣で日本舞踊を披露。ABS-CBNが取材に来てニュースでも紹介され、一躍コーディリエラの有名人です!
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-21 10:15 | CGNスタッフ&オフィス

マヤオヤオでの150万本の森作り

 日本の景気はまたまた下降気味。「そんな余裕がどこにある?」という声も聞かれそうですが、いまや大企業は地球温暖化防止のために何らかの行動を起こすことが、社会的責任を果たすために不可欠な時代となっています。
 コーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)でも、近年CSR(=Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)事業のお手伝いをする機会が増えています。昨年からは東芝グループの社会貢献事業「150万本の森作り」から資金援助を受け、ベンゲット州カバヤン、イフガオ州マヤオヤオとフンドアンで、6万本を目標に植林を行ってきました。

b0128901_90392.jpg


 9月と11月の頭の2回、世界遺産に指定されている素晴らしい棚田で知られるマヤオヤオでの植樹の現場を視察に行きました。マヤオヤオでは棚田に水を供給するために森林の保護が欠かせなかったはずなのですが、山火事が相次ぎ、見事な棚田の谷の向こう側の山々からはすっかり木が失われています。これ以上の森林破壊が進み、植林が行われなければ、命の糧である棚田さえ涸れてしまうのではないかという声が聞かれるようになりました。
 「そんなことあるわけない!」と、数千年といわれる棚田の歴史が終わるかもしれないことを認めない頑固者のおじいさんもいますが、世界各地の植林現場を視察しておられる東芝社会貢献室のHさんも、「中国雲南省で、茶色く枯れ果てた棚田を見たことがあります」とおっしゃっていました。今、行動を起こさなければ取り返しのつかないことになるのです。

b0128901_9332539.jpg

          ↑美しい棚田の裏はハゲ山!

 そんなマヤオヤオで、自主的に苗床を作り、自分たちの力で森林の再生を計ろうと考えていたイフガオ州政府の議員さん、サムソンさんと出会いました。CGNは東芝150万人の森作りから資金援助を受け、サムソンさん率いる地元の森林再生と棚田保全活動を行う人たちのグループと植林活動を始めたというわけです。

b0128901_13314235.jpg

          ↑苗木を運ぶサムソンさん
 
 9月の視察では、苗床で苗木が山に移植するのにちょうどいいサイズにすくすくと成長している姿を見ることができました。その後、その重たい苗木を住民のみなさんがエイヤエイヤと天秤棒に乗せて山に運び、3万本の植樹を約10ヘクタールに行いました。

b0128901_1333664.jpg
b0128901_13345659.jpg 










 



 
 11月の頭には、移植されたばかりの小さな苗木が、すごい勢いで伸び続ける山育ちのたくましい雑草たちと競争しながら、何とか生きのびよう生きのびようとがんばっていました。植林の成功は実はこの移植した苗木の根がつく割合にあります。植えるのは植えたけれども、根がつかずに育たなければ何の意味もありません。住民の方たち自らが、苗床で大事に大事に種から育てた苗木ですから、移植も「がんばって育てよ」と心を込めてていねいに行います。それでも、移植後に不幸にも雨が降らなかったり、山ネズミに根っこを食べられたり、病気になったりで、枯れてしまう苗木も出てきます。今は、苗木たちにとっての恵みの雨が降るのを願うばかりです。

b0128901_133929100.jpg


どのくらいの割合の苗木が生き延びることができたかは、3ヶ月後のモニタリング調査で判明します。
 
b0128901_13404164.jpg

          ↑ 山に移植されたマホガニー!がんばって育って!

b0128901_13452756.jpg

    ↑竹のステッィクに引っ掛けられた苗木用の黒いビニールポットが苗木の植えられた場所の目印です。
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-19 13:46 | 植林/アグロフォレストリー

第二次世界大戦の記憶

 ここバギオと北ルソンは、第二次世界大戦の激戦地と日本軍の降伏の地として知られています。フィリピンで亡くなった日本兵は51万8千人に及びます。(すごい数ですが、この戦争で亡くなったフィリピン人は110万人といわれ、日本人戦死者の2倍以上です。)
 そういう土地柄ですから、終戦後60年以上たった今も、フィリピンの方の中には心の奥底に大戦でのいろいろな思いを秘めていらっしゃる方もいますし、フィリピン戦を戦った元日本兵、この地で亡くなった日本兵の遺族など、今も多くの方がコーディリエラ地方を訪ねていらっしゃいます。
 私が最初に立教大学のチャペルが主催するスタディツアーで北ルソンのマウンテン州を訪ねた1984年には、山の村でずいぶんたくさんの戦争の話を聞き、自分の無知さ加減にショックを受けました。バギオに移り住み、観光地としてはほとんど知られていないこの地を訪れる日本人のほとんどが、大戦で亡くなった兵士たちの慰霊の方たちという事実にも驚きました。
 遅ればせながら、ベンゲット道路建設のために移民した日本人に始まった北ルソンと日本の100年以上に及ぶ歴史、大戦での悲惨な出来事などを、本や人々の話から学び、今現在この地に居を構えている数少ない日本人の一人として、機会があれば、戦争の傷を癒し、日比の新たな関係を築くためのお手伝いをさせていただいてきました。

 
b0128901_1835176.jpg


10月末から11月の頭にかけて、二人の大戦関係のお客さんがありました。
 その一人が、「Bridge for Peace」というNGOを主宰する神直子さん。青山学院大学時代にスタディツアーでフィリピンを訪れ、生々しい大戦での体験をフィリピン人のおばあさんから聞き、たいへんショックを受けたそう。日本の若い人たちに戦争の本当の姿を知ってほしいという思いから、日比両方の戦争体験者にインタビューをし、その映像を日本の大学やフィリピンのさまざまな場所で紹介するという活動をしています。

b0128901_183636100.jpg

 まだ、30歳の神さん。どんどん仲間たちの環を広げながら、仕事の合間を見て日本全国&フィリピンを飛び回っている行動力あふれる美女!です。しかも子供たちとも気さくに遊んでくれるやさしいお姉さん!

 今回、バギオ訪問は初めてということで、この地でしか会えない日系人の方たちに戦争体験を聞いてみたらどうかと提案し、アボン(Philippin-Japanese Foundation of Northern Luzon=北ルソン比日財団)のご協力を得て、インタビューを行いました。
b0128901_1838737.jpg


 集まってくださったのは、こんな白髪のおばあさま方。戦時中はまだ幼かった方も多く、子供時代の戦争体験のお話を多くしていただきました。

b0128901_18383994.jpg


 次に、今は日本の名誉総領事に任命されているカルロス寺岡さんを、バギオのご自宅に訪問。戦前、日本人がバギオの経済の中心を担っていた時代の豊かな生活、いっぺんして日本軍がバギオに空襲を開始した戦火のバギオでの体験、戦況が日本に不利になってからの陸軍と共にした山岳部への逃避行……そして、戦後、日本に送還され、後にフィリピンに戻って今の地位と財を築くまでのお話は、波乱に満ちた長い長い苦労の連続の体験で、とても数時間でお聞きできる内容ではありませんが、寺岡さんはとてもわかりやすく、淡々とお話してくださいました。
 山への逃避行の途中で目の前で母親と兄弟を亡くし、年上の二人の兄はそれぞれ日本側とフィリピン側に殺されたという寺岡さんの悲惨な戦争体験とその後の人生は、フィリピンと日本という二つの国の狭間にあったすべての日系人の方たちの苦悩を代表している声だと思いました。

 その後、「足を悪くしてアボンに出向けないのですが、ぜひ来てください」といっているという長岡さんという日系人の方を訪ねて、ラ・トリニダードに向かいました。戦争体験を伺いたいという意図は伝わっていたはずなのに、神さんが
「戦争のお話しをしていただけますか?」
 と切り出したとたんに、涙ぐまれ
「戦争の話でしたら、ごめんなさい。やはり話せません。お父さんお母さんも兄弟もみんな死んでしまいましたから。私だけ生き残りました」
 と、とてもきれいな日本語であやまられ、声を詰まらせておられました。
 私たち日本人の来訪にはそれまでインタビューしたどなたよりも喜びを表してくださったのに、戦争の話は思い出すだけでも涙が止まらない……言葉にはならない悲しみを痛いほど感じ、「また、絶対来てくださいね」という言葉を背に長岡さんのお宅をあとにしました
 
 神さんの感想はBFPのブログで読んでくださいね。
 
b0128901_18393627.jpg 
 翌日は、日系人のおばあさんたちの話に何度も出てきたキャンプ・ジョン・ヘイに、子供たちも連れて出かけました。真珠湾の攻撃からまもなくして、日本軍がキャンプ・ジョン・ヘイを攻撃してフィリピン戦が幕を明けました。そして、1945年、イフガオ州のキアガンで投降した山下奉文(ともゆき)陸軍大将が降伏文書に署名したのもキャンプ・ジョン・ヘイです。いまはアメリカ大使公邸となっている建物が会場だったそうです。
 つまり、フィリピン戦はキャンプ・ジョン・ヘイで始まり、キャンプ・ジョン・ヘイで終わったわけです。今は、すっかりマニラからのお金持ちたちのリゾート地として姿を替えていますが……。
 私たちはそんな歴史に思いを馳せながら、松林の中で思いっきり深呼吸をしました。
 
 神さんたちはバギオ市政100周年記念の平和イベントにも参加して戦争体験者のインタビュー・ビデオの上映を行いました。(詳しくは、北ルソン日本人会JANLのブログで)。私は残念ながら参加できませんでしたが、バギオの市長やらお偉いさんが勢ぞろいで、ずいぶん盛大な会だったよう。神さんがふだん企画している、日本の若者たちによる小さな地味な上映会とはずいぶん趣が違ったようです。
 神さんの感想は「みんなバギオを愛しているのよネエ」。
 なるほど。

 神さんたちのバギオ滞在の最後は、日本軍の攻撃による銃弾の跡が残る廃墟をそのままおしゃれなカフェにしたという「Café By the Ruin」でのランチ。観光客にいちばん人気のバギオ名物のこのカフェも、日本との戦争の傷跡をそのまま残したものなのですから、カフェごはんはおいしくとも複雑な気持ちになります。
 神さんは知ってか知らずか、山岳民族が儀式の際につぶすトリ料理「ピヌピカン」をオーダーして口に運んでいました。ここで、亡くなったかもしれないすべての方々に合掌……
 
 それにしても、日本とバギオの因縁は知れば知るほど深いものがあります。北ルソン日本人会JANLでも、2009年のバギオ市政100周年を記念して、日本とバギオの歴史をテーマとした演劇制作を計画中だそう。山下大将が降伏文書にサインした9月3日のバギオ上演を目指して、準備を開始したそうです。この100年を節目に、新たな日本とバギオの平和的関係の象徴となる催しになることを期待しています。
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-11 18:48 | 戦争

レアも退院しました

昨日のブログで、ローデスと一緒に交通事故にあったレアのことをご報告するのを忘れていました。ローデスより一足早く退院したそうです。足の骨折がローデスのように複雑なものではなく、ギプスですんだということ。頭の手術の経過を見て退院したとのことです。

いちばん最近アーネルがレアにあったときには、
「ずっとダンターラン(彼女の出身の山の村)にいればよかった。タブックなんかに出てこなければよかった。そうしたら事故にあわなかったのに。。。」といっていたそう。
 20歳の若いお嬢さんが、顔に傷を負い、頭の毛をそって生え際に大きくメスを入れる手術をしなくてならず、足ほうのもちゃんと歩けるようになるか不安、、、、気持ちを切り替えて、大学に戻ろうと思えるようになるには、まだ少し時間がかかることでしょう。

 レアの病院での治療費については最終的にはトラックの運転手が10万ペソ近いお金をすべて払ったそうです。事故の原因は、一方的にトライシクルなのに。
 アーネルに言わせれば、「トラックがそこにいなければ事故はおきなかった」からトラックにも責任があるというカリンガ的な考え方で、あとは、トラック側がトライシクル側と交渉し、どうやって治療費を取り立てるかなのだそうです。
 
 しかし、ローデスの時には、あんなに頼んでもトラックとトライシクルあわせて、6000ペソしか持ってこなかったのになぜ?と思いますが、それも、カリンガならではの状況だそう。レアがカリンガ民族という民族のパシルというに民族グループに属しており、トラックとトライシクルの運転手もやはり、カリンガ民族のどこかの部族に属していたため、これは昔の風習にのっとって、部族対部族の争いに発展する可能性があるというわけです。
 もし、部族間の抗争に発展すると、本人や家族だけでなく、村に住むすべての人が、復讐の対象となりうるわけで、罪のない人たちが巻き添えになる可能性があるというのです。さすがの運転手もそれだけは避けたかったらしく、事が大きくなる前に、借金するかなんかし、レアの分のお金はなんとか持ってきたというわけ。
 ローデスの場合は、山岳民族の出身ではないので、この伝統風習の意識が働かず、言ってしまえば
「まあ、払わなくても殺されはしないだろう」
くらいの気持ちだったと思います。
いや不条理な。
まるで、暴力団間の抗争のようですね。しかし、暴力団でも民間人にはちゃんと賠償するのではないかしら?

いや、恐ろしき社会です。日本がちょっと懐かしい。。。。
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-05 16:34 | 奨学金

ローデスさん退院!

 いやいや、長い1ヶ月でした。10月4日にタブックで交通事故にあったローデス。10月30日、なんとか退院にこぎつけました。
 タブックからバギオの病院に移送したのち、10月21日に複雑骨折の足の大手術。固定のために足にステンレスのバーを入れたほか、腰の骨を削って欠けてしまった足の部分に移植するというたいへんな手術でした。
 CGN副代表でベンゲット州立大学森林学部教授のジャン・タクロイ先生が、自分のクラスの学生さんに協力を求めてくれて、CGN奨学生とともに輸血に協力してくれました。手術後も出血が止まらず、血圧がかなり下がって心配しましたが、だいぶ血圧も安定してきて、担当医から退院の許可が出たというわけです。

b0128901_1315789.jpg 手術後4日目から、早くも歩行器で歩く練習を始め、毎日少しずつ歩数を増やし、退院までには50歩ほどを、ものすごくゆっくりですが歩ける(というか動けるという感じですが)ようなっていました。何しろ血圧が低いのと体力が落ちているので、長い時間動けませんが、ローデスは1歩でも多く歩きたいと意欲満々でリハビリに励んでいます。

 さて、退院したローデスの行き先ですが、彼女が住んでいたアパートはすごい急な斜面をどんどん降りていったところにあり(山の町バギオにはそういうところがとても多いのです)、今のような状態では、リハビリで病院に通うにも誰かにオンブしてもらうしかなく、娘さんの仕事場から近い場所に部屋を借りました。新しい生活のスタートです。
 退院の翌日、CGNスタッフがローデスの新居を訪ね、山岳民族の風習にのっとって鶏をつぶし、ローデスの退院、1日も早い回復、新居での新しい人生のスタートを祝いました。やっとローデスの顔に笑顔が戻ってきました。
b0128901_13155834.jpg


 カンパをいただいた皆様、本当にありがとうございました。何よりも新しい人生のスタートを切る心の支えになりました。
 CGNスタッフの中からも、安月給の中から給料の3分の1を快くローデスのためにと差し出してくれるものもいて、目頭が熱くなってしまいました。この国では保険システムはほとんど機能していませんが、こうやって日常生活の中で、いつもいつも人と人とが助け合っていく「心」が保険の代わりなのだなあ、と実感しました。

 とりあえず、ローデスには今年の終わりまでは、ゆっくり休んでくださいということにし、その後については状況を見て相談していくつもりです。また、このブログを通して皆さまに報告させていただきます。
[PR]

by cordillera-green | 2008-11-04 13:19 | CGNスタッフ&オフィス